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浄土真宗の七高僧

こんにちは!

先日、知り合いのお坊さんのご依頼で、浄土真宗七高僧に関するイラストを書かせていただきました。

許可をいただきましたので、せっかくなのでそれぞれの高僧のエピソードとともにイラストをご覧いただければと思います!^^

 

 

そもそも七高僧って? 

浄土真宗の宗祖、親鸞聖人が選んだ7人の徳の高い僧侶達です。

 

日本の仏教には色々な宗派がありますが、「南無阿弥陀仏」を唱える浄土真宗はその中でもよく知られていますよね。

とはいえ浄土真宗で唱えられるのは南無阿弥陀仏だけではありません。

僧侶や門徒の方々は、毎日朝晩、そして法要の際に「正信偈」を唱えられているそうです。

正信偈」というのは、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が、教えの大切な部分を込めた詩文で、七高僧はそのなかに登場します。

 

彼らは親鸞聖人が浄土真宗の教えを伝える上でとても重要と考えた、インド、中国、日本の偉大な僧侶達なのです。

 

1人目 頭が良すぎて調子に乗っちゃいがち! 龍樹菩薩 

それではまず1人目からご紹介しましょう。 2世紀に生まれたインドの僧侶、龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)です。

龍樹菩薩は[ナーガールジュナ]という名でもよく知られています。

 

彼は乳飲み子の頃からバラモン教(古代ヒンドゥー教)を理解し、唱えていたほどに頭のいい人で、若いうちにあらゆる学問を納めてしまいました。

龍樹には同じように頭の良い3人の友人がいたのですが、あらゆる教えを学び尽くし、持て余した彼らは快楽を追求することにします。

 

隠れ身の術を身につけた彼らは、王宮へ夜な夜な忍び込んで女官たち全員を犯し、ついには身ごもらせてしまいます!

王様はカンカンに怒り、友人3人は斬り殺されてしまいますが、王の陰に隠れた龍樹はなんとか生き残りました。

 

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友人の死を目の当たりにした龍樹は、死の苦しみ、自分の無智を知り、仏教に出家することに決めたのです。

 

さすがに頭の良い龍樹、小乗仏教もたった90日で取得。

物足りなくなって再び慢心を起こしていた龍樹でしたが、ある時竜宮へ導かれ、大龍から「般若経」を授けられます。そこで彼は真に自分が追求するべき大乗仏教に出会い、【縁起】と【空】の思想を身につけ、ついには不退転の境地(揺るぎない幸福)に至ります。

 

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その後、仏教を認めない王のもとで邪教が広まるのを嘆いた彼は、王の護衛兵として才覚を現し、王の側近となります。そして王は仏教を認め、教えは王宮から広まっていきました。

 

彼は仏教には2つの道があると言います。

・途中で弱音を吐かず、身命を惜しまず精進しなければならない厳しい陸路【難行道】

・船に乗っていく水路のように実践しやすい、仏の名を呼ぶ(念仏)の【易行道】

 

そしてこの易行道の教えが、その後の浄土真宗にとって重要な思想となるのです。

 

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2人目 舌を抜いてお詫びします! 天親菩薩

2人目は龍樹菩薩から約200年後の人、天親菩薩です。

彼は[ヴァスバンドゥ]や[世親]という名でもよく知られています。

ガンダーラに生まれた彼は、世親3兄弟の次男。

3人とも仏教に帰依していましたが、特に大乗仏教に帰依していた兄の無著は有名です。

 

一方、天親は小乗仏教から頭角を現します。

説一切有部』という小乗仏教で最も栄ていたグループに属し、そこで「阿毘達磨倶舎論」という理論をまとめた書物を書いたことで、小乗仏教の学者としてインド全土に名が響きます。

 

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有頂天となった天親は兄の大乗仏教も批難するようになりますが、逆に兄に叱責され、大乗の教えを解かれます。

大乗の教えを理解し、以前の自分を恥じた天親は自分の舌を引き抜こうとします。

しかし兄の無著はそれを止め、その舌で大乗仏教を広めるようにと彼を諭します。

 

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それから、天親は大乗仏教の『瑜伽行唯識学派に転向し、その教えをさらに広めていくことになったのです。

しかし、大乗仏教のグループに属して研鑽を積むものの、天親は兄のような境地に至れない自分に悩みます。そんな時に彼が出会ったのが「無量寿経」です。

 

無量寿経」を読んだ彼は、法蔵菩薩が生きとし生けるものを覚りに導き、救うことを願い、阿弥陀仏となって西方浄土で迎えていること、その中に自分もいることに気が付きます。

そして、大乗の本質はその阿弥陀仏の願いに身をゆだねることだという結論に至ります。

その後、天親はその考えをまとめ、「無量寿経優婆提舎願生偈(浄土論)」を著しました。

(この「浄土論」はあとでまた出てきます)

 

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最初に言った通り、浄土真宗では「南無阿弥陀仏」とよく唱えます。

その「阿弥陀仏」の願い(生きとし生けるものを救いたい)に身をゆだねるという考え方こそが大乗の教えである、と解いたという点で、天親菩薩は非常に重要な人物なのです。

 

3人目 永遠の命なんていらなかったのだ! 曇鸞大師

3人目は中国の人、曇鸞大師(どんらんたいし)。

5世紀ごろ、中国南北朝時代に生まれた僧侶です。

彼は北魏王朝の庶民の生まれでしたが、非常に勉強熱心で、仏教ばかりでなく儒教老荘思想など膨大な書物を読み、多くを学びます。

 

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15歳で出家し、難解なお経を訳していった曇鸞でしたが、膨大な量を訳していくには寿命が足りないと感じ、寿命を延ばす仙人の教えを求めて、命からがら北朝から南朝へ渡ります。

南朝の梁では幸運にも皇帝に気に入られ、その計らいで仙人から念願の「仙経」を授かります。

 

しかし、北へ帰る途中、彼はインド出身の三蔵法師・菩提流支(ぼだいるし)に出会い、彼に大乗の教えを説かれます。

仙経による延命は煩悩の中のこと、限りないいのちを説く「観無量寿経」こそが生死の世界からの解脱であることを知った曇鸞は、手に入れた仙経を焼き払い、大乗仏教に帰依することに決めます。

 

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彼に「観無量寿経」を授けてくれた菩提流支は、インド人の僧として中国に来ていたので、先ほど出てきた天親菩薩の「浄土論」をインドの言葉から中国語に訳していました。

そして、曇鸞はその注釈「浄土論註」を書き上げます。
曇鸞は「浄土論註」で、「浄土論」の内容こそが、龍樹菩薩の説いた【易行道】を勧めたものであると讃えていて、さらにお釈迦様が説いた阿弥陀仏の本願に身を委ねるという教えを明らかにしていると伝えています。 

 

晩年になると、曇鸞は石壁山の玄中寺という深い山中にあるお寺に移り住み、田舎の人々に浄土の教えを説きます。

彼の臨終の際には300人以上の人が集まり、一同が念仏する中、67歳で往生されました。

 

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その後、皇帝の勅命により、玄中寺には曇鸞大師のための塔や石碑が建てられました。

この玄中寺は、中国で最も由緒ある浄土教のお寺として現存しています。

 

4人目 小豆を使ったらいいんだよ! 道綽禅師

玄中寺で曇鸞大師が入滅されてからおおよそ20年後、玄中寺のそう遠くない村に道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は生まれました。


まだ仏教が盛んであったこの時代でしたが、北周武帝によって廃仏が行われます。

 

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廃仏が解かれ、14歳のときに出家した道綽は「涅槃経」という経典に精通します。

また、30歳を過ぎて慧瓚禅師(えさんぜんし)に師事し、座禅をするなど厳しい修行をして、戒律と禅定の実践に励みます。

禅行を積む高徳な僧侶に対する尊称で[禅師]を諡号として贈られたので、七高僧の中でも彼のみが[道綽禅師]と呼ばれています。

 

48歳のとき、彼は玄中寺にある曇鸞大師の碑文を見て感銘を受けます。それからは自力修行の道を捨て、浄土教に帰依し、玄中寺の門下となりました。

 

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かつて曇鸞大師が長寿の秘法を捨て、大乗仏教に帰依するきっかけとなった「観無量寿経」、その経典の講義を数多く行った彼は、念仏を広めるために村人達に小豆を持って集まってもらいます。そして、念仏を唱える度に小豆を一つずつ袋から出し、出し終わったらまた念仏ごとに豆を袋に戻すという、老若男女にわかりやすい念仏方法を教え、それは【小豆念仏】と呼ばれ広められました。

 

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5人目 都会に出てきました! 善導大師

善導大師(ぜんどうたいし)は上記の道綽禅師に直接師事した僧侶です。

彼は西遊記三蔵法師として有名な玄奘(げんじょう)と同じ頃の人で、隋が唐へと変わる戦乱の時に生まれ、唐の時代に入った頃に出家します。

 

30歳を前にして浄土教の中心、あの石碑のある玄中寺に赴き、80歳を迎える道綽禅師のもとで「観無量寿経」の講説を聞き、浄土の教えに帰依します。
善導は道綽禅師が85歳で亡くなるまで側を離れず、道綽禅師の説く念仏を大切にしました。

 

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道綽禅師亡き後、善導は太平の世となった今こそ、片田舎の山寺にあった浄土の教えを人の集まる都で広めるべきだと感じ、当時の首都、長安光明寺で【二河白道】の絵解きをするなど布教に努めます。

二河白道は、極楽往生を願う浄土教の信心を例えたものです

 

同じ頃には玄奘三蔵がインドより戻り、大慈恩寺で経典の翻訳をはじめ、長安の都では仏教が大いに盛り上がります。

 

37歳の時、善導の元に「私は仏の御名を唱えています。念仏すれば間違いなく浄土に生まれることができるのでしょうか?」と真剣に尋ねる者が現れます。

善導が「念仏すれば、必ず浄土に生まれます」と答えると、その人は「南無阿弥陀佛」と唱えながら門前の柳の大木に登り、西方を望み合掌しながら投身をし、大事件となりました。

 

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この事件がきっかけで都で話題となった後も、善導は読誦と礼拝・懺悔の間合いに浄土三部経の一つ、「阿弥陀経」を書写しました。


63歳になったころには龍門石窟の大仏造営という唐朝あげての大事業の監督を任され、4年弱の年月をかけて完成させます。
こうして、山西の田舎に産声を上げた阿弥陀仏・極楽浄土の教えは、大いなる唐の都、長安に根付き育ち、中国全土に広まりました。

 

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6人目 お母さんは、そんなものいりません! 源信僧都

いよいよ日本、時代は平安時代

奈良の片田舎にいた源信は7歳で父を失い、熱心な仏教者の母のもとで育ちました。

 

日本には仏教が根付いていましたが、最澄の開いた比叡山延暦寺では、最大の仏堂である根本中堂を含む、多くの堂舎を火災で失っていました。

奈良に生まれた源信僧都は、そんな比叡山の僧・良源に9歳で入門し、禅行から密教まで学びます。

14歳で得度を受けると、15歳の時には天皇の御前で「称讃浄土経」を講じ、法華八講の講師の一人に選ばれ、褒美を賜ります。

 

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源信はその時の褒美の品を故郷の母へ送りましたが、母は源信を諌める和歌を添えてその品物を送り返しました。
「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ」

(世渡りばっかり上手な坊さんならないで本当の求道者になりなさい)

 

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その後、師匠の良源が天台座主延暦寺で一番偉い人)となりましたが、再建されていた根本中堂はまた大火に見舞われ、焼失します。

良源は根本中堂を再編、小さかった御堂は現在のように大きなものとなり、完成に際しては盛大な法要が開かれ、源信も参加していました。

 

比叡山が再興する中、源信は師・良源をその地位から引きずりおろそうとする派閥と対立していました。しかし母の言葉を思い出し、僧侶でありがなら権威を保とうとする争いそのものに疑問を感じ、一線を退くことを決め、横川(比叡山の中でも中心から離れた区域)の恵心院に隠棲し、念仏三昧の求道の道に入ります。

数年後、師・良源が病に倒れ、それを機に浄土と流転する六道輪廻の世界を纏めた「往生要集」を書き上げます。

76歳となり、病で臨終を感じた源信は、阿弥陀如来像の手と自分の手を糸で結び合掌し、念仏を唱えながら往生されました。

 

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7人目 浄土宗を開こう! 源空上人

最後は平安時代後期、岡山県に生まれた源空上人です。

彼は[法然上人]という呼び名でも有名で、これまでご紹介した七高僧の登場する「正信偈」を書いた親鸞聖人の直接の師匠に当たります。

 

源空が9歳の時、押領使(警察や自衛隊のようなもの)をしていた父が夜襲で殺害されますが、その時の父の遺言によって仇討ちを断念します。

「敵の者を怨んではならない。もし其方が仇を討つようなことがあれば、またその子がおまえの命を狙ってくるであろう。

そのように、争いは世代が変わっても果てることがなくいつまでも続くことになる。」

源空は僧侶であった母方の叔父に引き取られ、そこで学問を授かり、比叡山への出家を促されます。

 

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源空は13歳で比叡山に登りますが、あまりの優秀さゆえに師匠が「自分はもう教えることはない」と感じ、次々と高位の僧侶へと指事します。

そして房号と諱を授かり、僧としての正式名称を[法然源空]と名乗ることになり、20歳になる頃には「大乗経(一切経)」255巻257冊という膨大な経典を5回読破、[智慧第一の法然房]と称されます。

20代半ばには、寺に集まる民衆を見て衆生救済について真剣に深く考えたり、醍醐寺や奈良に遊学し、法相宗三論宗華厳宗の学僧らと談義しました。

 

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43歳の源空は、かつて唐に浄土教を広めた善導大師による「観経疏」(観無量寿経の注釈)と出遇い、専修念仏を奉ずる立場に進んで新たな宗派『浄土宗』を開こうと考えます。

そして比叡山を下りて、今の円山公園のあたりに吉水草庵をひらき、大衆に貴族、身分を問わず念仏の教えを説きました。

 

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しかし念仏が広がるにつれ、源空は逆風にさらされます。念仏によって世が乱れるとして、興福寺が朝廷に専修念仏の停止を訴えたのです。

そんな中、さらなる事件が起こります。後鳥羽上皇の留守中に、院の女房たちが源空門下の僧侶で、唱導をよくする住蓮・安楽のひらいた念仏法会に参加し、それに感銘を受けて出家、尼僧となってしまったのです。

このことは上皇の怒りを買い、ついに専修念仏は停止させられます。

 

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住蓮房・安楽房他2名は死罪、源空は讃岐へ、すでに源空へ指事していた親鸞は越後へと、弟子を含む計7名が流罪に処せられました。

しかし源空は、数年後に京に戻るまでの間も各地で布教活動を続けました。

 

そして最終的にはその弟子、親鸞浄土真宗の宗祖となることで、その教えは日本で広く信仰されることとなったのです。

 

七高僧のエピソードは以上です。浄土真宗は、今では日本で一番大きな宗派と言われています。自分は浄土真宗じゃないよ!という方も、少し知っているとお寺に行くのが楽しくなるかも。そんな一助になれば幸いです^^